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小川一水「時砂の王」考察:本書のテーマについて

作品情報 

時砂の王

時砂の王

なお、フリーランチの時代という短編集に、本作に関連する短編が収められています。

フリーランチの時代 (ハヤカワ文庫JA)

フリーランチの時代 (ハヤカワ文庫JA)

また、NHKのラジオでオーディオドラマ化だそうです。

時砂の王 | NHK オーディオドラマ

評価

☆☆☆☆(最高評価は☆5つ)

※以下は作品のネタバレを含むので、注意してください。

 

ネタバレ考察

本作の軸となるテーマについて

 本作に貫かれているテーマは、序盤のオーヴィルとサヤカの会話の中に込められていると感じた。すなわち、

「人間に対し忠実な人を、君は重んじる」

「そう」(本書54頁)

サヤカが言ったこの言葉に対し、オーヴィルは興味を抱く。しかし、「人間に対し忠実」という文章の「人間」とはいったい何を指すのか。オーヴィルは以下のように考えている。

サヤカはどういう意味で「人間」と言ったのだろう。それは、自分がまだ実感できずにいる、守るべき対象としての「人類」と同じものなのか。(55頁)

 そして、再びサヤカと出会い、上記の「人間」とは何か質問したオーヴィルに対し、サヤカは、「私だってわかっているわけじゃないわ」と答える。*1 結局、この「人間」とは何を指すべきか、という点が本作のテーマの1つとなっていると考えられる。そして、この問題は、最終的に「一人の全ての可能性と、人類という種の可能性は、一体どちらが大切なのか」という問いへと進化することになる。*2

 また、サヤカは上記のテーマに対し、以下のように述べる。

「これだって、実は本心じゃないわ。」(中略)「こんな理想にまっすぐ向かっているなんて考えるのは、とても疲れる。第一、危険だわ。」(62頁)

 そして、サヤカは戦争を「ただの我慢するべき必要なプロセス」と考えていると言い、オーヴィルはその考え方を身に着けたいと思うのであった。*3 この「戦争はただの我慢するべき必要なプロセス」という考え方は、上記の「人間に対し忠実」という考え方と共に、今作のテーマになっていると考えられる。 

対立するオーヴィルとカッティ・サーク

 上記の2つのテーマについて、お互いに対立しあうのが、主人公であるオーヴィルと統括知生体であるカッティ・サークである。個々の人間を人間を忘れないように作られた知生体であるオーヴィルと、大局を忘れないように作られたカッティ*4は、最初から対立する運命にあったのである。そして、その対立は、オーヴィルがサヤカと過ごしたことにより、決定的になったのである。

「俺は彼女にすべてを与えられた。十万年の度に耐えられるだけの心を」(中略)「この手が覚えている。人というものの形を。俺とカッティ・サークを根本的に違うものにしてくれた。」(196頁。) 

 以下では、「人間に対し忠実」、「戦争はただの我慢するべき必要なプロセス」というテーマのそれぞれについて、対立構造を見ていく。

「人間に対し忠実」というテーマについて

「人間に対し忠実」である点は両者同じであるのだが、「人間」が何を指すかという点について、両者は異なる。具体的に言えば、カッティの考える「人間」とは、人類という種そのものであり、オーヴィルは個々の人々を「人間」と考えている。

 両者の対立が明示されるのが、Stage-3において、無限遡行しようとするETへの対抗策を考えるシーンである。全員で10万年前に戻ることを提案するカッティに対し、オーヴィルは、10万年前に戻る間に通過する時間枝を自らが守ることを提案する。*5 その提案は、カッティが躊躇するような内容であったものであったが、最終的にカッティは「あきらめたように」許可すると述べたのであった。 *6

 この部分において、人類という種が守れれば良いと考えるカッティに対し、様々な時間枝に存在する個々の人間をも守りたいと考えるオーヴィルが対比されている。このことは、このシーンにおいてオーヴィルが「カッティ・サークと、自分との間には渡りようもない谷間が開こうとしている……」と考えたことからも明らかである。*7

 また、この対立は、その後のStage-448において、より一層深刻となる。窮地に陥ったと判断したカッティは、時間遡行の無限反復すなわち10万年分の戦いをなかったことにしてやり直すことを、オーヴィルに対し提案する。*8 これは、個々の人間を差し置いても、人類と言う種が存続すれば良いという考え方である。オーヴィルは、これに対し激怒し、カッティを「破壊してやる」とまで言ったのであった。*9

「戦争はただの我慢するべき必要なプロセス」というテーマについて

 「戦争はただの我慢するべき必要なプロセス」と考えるということは、上記のサヤカの考え方の通り、理想にまっすぐ向かわないという考え方である。この点につき、カッティは常に人類の存続という理想を追求しており、上記のような考え方をとっていないことは明白である。

 これに対し、オーヴィルはどうか。個々の人間を救うために時間枝をさかのぼったオーヴィルだが、それは挫折の繰り返しであった。Stage-410における「交戦回数、四百六回。勝利三十六回、撤退三百七十回。」という数字*10から見ても、「人間に対し忠実」であり、個々人を救うという理想は、ほとんど達成できなかった。仮にオーヴィルが理想のために戦っていたら、あるいは戦士の矜持や自負のために戦っていれば、三百七十回にも及ぶ敗走に耐えきれなかっただろう。

 このような状況下であっても、オーヴィルが戦い続けられたのは、オーヴィルが理想・矜持・自負といったものに頼っていなかったからであろう。オーヴィルは、「戦争はただの我慢するべき必要なプロセス」であるという、サヤカの教えを受け取ったからこそ、10万年の幾多にも及ぶ戦いに、かろうじて耐えきることができたのである。

本書の結末について

 対立する考えを持ったオーヴィルとカッティ。そして、人類の救済、人類と言う種の可能性を模索したカッティは、Stage-488において、最終的に敗北して自爆する。そして、このカッティの死によって、人間の救済の可能性が開かれることになったのである。これは非常に示唆的である。

 しかしながら、オーヴィルもまた、死ぬ運命にあった。最後に、オーヴィルは以下のように述べる。

「いいか、人を守れ。国だの、故郷だのは捨てろ。そんなものはいくらでも作れる。そんなものはなくてもいいんだ。これさえあれば」(261頁)

人を守る。それが、オーヴィルの最終的に行き着いた境地であった。一人の全ての可能性を、人類と言う種の可能性よりも大事にするという考え方が。

 そして、オーヴィルがそのような考え方の下で命を賭して守り抜いた彌与が、仲間と共に戦い抜くことを決意したことで、時間軍が成立することになる。その結果、最終的に人類はETに勝利することになる。時砂の王が救った人々が、時の経過によって砂に埋もれてしまうような人々が、人類を救ったのである。

 しかしながら、彼自身は救済されていなかった。彼の心の底にあったもの、それがまた切ない。

 むしろ、旅路を通じて抱き続けたある思いこそが、彼の心の核に当たるらしかった。これは……(中略)空白だ。ただ空いているというのではなく、そこにあったものがなくなったという気持ち......なくなり、追い求め、まだ得られていない。(273頁。) 

 オーヴィルの思いを受け継いだΩは、このことに気づいた後、沙夜と出会うのだった。オーヴィルの救済を示唆するこのシーンによって、物語の幕は閉じられる。

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*1:本書62頁。

*2:184頁。

*3:63頁。

*4:185頁。

*5:179-182頁。

*6:182-183頁。

*7:184頁

*8:212頁。

*9:213頁。

*10:216頁。